信濃国分寺(上田)

本章挨拶文に”蘇民将来」は,木を六角形,あるいは八角形に刻んだお守りで,北は,岩手の黒石寺から南は京都の八坂神社まで見ることができる.30年前(1983年)の家族旅行の途中,上田信濃国分寺で蘇民将来のポスターを見つけ,蒙古のパオを連想させるその異国的な形に興味を引かれた.10年後の1993年1月7日,信濃国分寺「八日堂縁日」で蘇民将来のお守りを手に入れた.縁日への道は雪が道路沿いに積まれた底冷えのする夜であった.「蘇民将来子孫之也大福長者」と六角柱の各面には2文字ずつ記されている.一体,「蘇」の「民」の「将来」とは何なのか?”と書いた.
 信濃国分寺は上田から”しなの鉄道”で一駅の「信濃国分寺」駅から徒歩で5分のところにある.1月7,8日に行われる上田信濃国分寺の八日堂縁日は,私の蘇民将来探訪の出発点である.時に親疎はありながら30年以上にわたりその興味を持ち続けさせてくれる源泉でもある.本ホームページの竿頭を飾るお守りが信濃国分寺のお守りである.







信濃国分寺駅
 


信濃国分寺.三重の搭は重文


お守りの蘇民将来は各地にあるが,上田の信濃国分寺では蘇民講という昔から伝えられてきたシステムによって頒布されてきた.地元の人たちがドロヤナギの木を刻み,表面の字を寺僧が書き入れるという組合方式で,数量も管理されて1月7,8日に国分寺で頒布される.利益が双方に入るという実利が長い間続けられてきた理由ではないか.また,僧が書き入れる文字とお守りの梵字(魚形は邪神を睨み返す呪文を表す.帯は注連縄と同じ)が生き生きとしていて,ほかの寺社(神仏混合となっていたので,寺だったり,神社だったりする)が出す蘇民将来よりも素晴らしい.
 繁栄の原因の一つに,信仰の対象としての「蘇民将来」以外に,民芸品として優れている「蘇民」の売り出しがある.1月8日の午前8時に蘇民講により頒布されるという,下のようなビラが境内に張ってあった..大変な人気らしい.すぐそばの「信濃国分寺資料館」に行ったところ古い時代からの蘇民が展示してあった.七福神を重ねた楽しそうな蘇民で,時代によって,また作者によって異なり,工人の腕の見せ所なのであろう.いつかは,手に入れたいものと思う逸品である.
 


国分寺境内.1月7日.


 信濃国分寺資料館展示の「蘇民」

かっての国分寺跡を無神経に信越線が走り,二分した.したがって,資料館から向こう側の国分寺跡に行くためには線路の下のガードをくぐっていくことになる.おそらくたくさんの遺物が発掘されてであろうに,ゴミとして廃棄されたに違いない.今となっては残念なことではある.


 信濃国分寺資料館

 なぜ八日堂縁日なのであろうか.資料館の説明によれば,国分寺建立の詔に「毎月8日に金光明最勝王経を転読する」ことが定められていること,また,薬師如来の縁日が8日であったからとされている.八坂神社(ただし,明治時代に入ってからの名称.もちろん古くから八坂の名はあった)など蘇民将来のラッキーナンバーは”8”なのが気になる.
 別所温泉の鎌倉時代の国宝「安楽寺八角三重搭」の模型が資料館に展示してあったが,八角搭は大変珍しいとのこと.何かで,高句麗の建築物に特有だと書いてあったことを思い出す.八坂神社の由来に斉明天王2年(656),高句麗の使い伊利之使主(いりしおみ)が来朝したとき,新羅の牛頭山に座す須佐之雄尊(スサノオノミコト)を祀り,そのとき朝廷より八坂郷と八坂造(やさかのみやつこ)の姓を賜った”とあるから高句麗にどこかかで関係あるかと推測するのは考えすぎか.

 

国宝「安楽寺八角三重搭」模型