私立大学化学系教員連絡協議会が生まれるまで

                                      名誉顧問  吉弘 芳郎

 昭和30年頃から日本では工業生産の伸びとともに経済も伸び、昭和31年の経済企画庁の経済白書で「もはや戦後でない」と記載されるようになった。

 この経済発展を支える多くの技術者、研究者の育成が急がれた。しかし当時は、理工系学部のある私立大学は少なく、技術者、研究者の育成は国立大学の理学部や工学部に依存していた。しかしこれらの学部の学生定員を急に増やすのが困難な状態であった。

 私立大学の多くは文科系学部で構成されていたが、これに工学部や理工学部が創設され、技術者の育成が行われた。文科系大学から創設された工学部や理工学部では、教育や研究の進め方が文科系学部になかなか理解されず、創設された理工系の教員が苦労することもあった。理工系学部の学生の教育は優れた指導者の下で、実験や実習が必要で、これについての費用が必要となる。

 しかし国からの私学に対しての財政的支援は少なく、これらを学生の授業料に頼ることになった。それぞれの私立大学が可能な限りの入学者を入学させることになり、これが教育、研究の面で私立大学に共通する問題の種となった。

 実験、実習など学生が体で体得する科目が基礎となる化学系の学科では、深刻な問題であった。

 大学の財政事情が根本の原因であるので、いくつかの学部を有する私立大学で理工系学部の一学科では解決の方法もない。

 大学では教員組織が大学設置基準で、教員組織、教員の資格が厳しく守られている。私立大学の教員の教育、研究の負担は国立大学に比べて大きく、これが助手たちのいろいろな不満のもととなった。この不満は、学科単位では対応しきれない状態となった。

 都下の私立大学の化学系ではこれらの問題にどのように、対応しているかを話し合うことが望まれた。

 昭和36年(1961年)(故)永井祥一郎先生の呼びかけで、都下の私立大学の理工系化学科の教員が集まり、研究所を見学して私立大学の教員が交流することがあった。この経験があるので、中央大学から都下の私立大学の化学系学科に話し合いの呼びかけが行われた。

 この呼びかけで日本大学理工学部工業化学科、東京理科大学理学部化学科、成蹊大学工学部工業化学科、明治大学工学部工業化学科と呼びかけの中央大学理工学部工業化学科の5学科であらかじめ各大学での実情を本音で話し合った。本音での話し合いが重要であることとなった。そして都下の私立大学の教員それぞれが、この話し合いで各大学の現場の様子を本音で話し合った。そのため議事録を残さないことにした。

 そして私立大学化学系の教員の連絡協議を組織化することが、望まれた。呼びかけの中央大学、日本大学、成蹊大学、明治大学、東京理科大学が幹事校となり、幹事校の互選で当番校を決めた。当番校が化学系の大学に連絡その他の仕事を行うこと、幹事校や当番校は、各大学持ち回りをするなど、会の運営方法などの骨子を決めた。

 初代の会長に(故)永井芳男先生にお願いすることにした。

 昭和51年(1976年)会の名称、会員資格、事業、運営、会計、規約の原案が固められた。

 昭和52年の総会で私立大学化学系教員連絡協議会規約が承認され、昭和52年10月1日よりこれが実施された。その後若干の修正が行われたが現在までこの協議会は継続している。