京都 八坂神社

 八坂神社の創祀は明らかでないが,,斉明天王2年(656),高句麗の使い伊利之使主(いりしおみ)が来朝したとき,新羅の牛頭山に座す須佐之雄尊(スサノオノミコト)を祀り,そのとき朝廷より八坂郷と八坂造(やさかのみやつこ)の姓を賜った.天智天皇6年(667),感神院を造営し,牛頭天王を祀り,祭祀を執り行うようになったと神社では考えている.
 東山山麓にはスサノオノミコトを祀るたくさんの神社があるのでこの地に大きな勢力を維持していたと考えられる.渡来民は大和朝廷の財政面で大きな力を持っており,秦河勝(かわのかわかつ)率いる秦氏は平安京の造成を行ったと言われる.その時の八坂造の行動は明らかでない,何か貢献したからこそ八坂郷を保持できたのだと考えられる.平安時代以降,神仏習合によってスサノオノミコトは牛頭天王(ごずてんのう)とも呼ばれていた.当時の祭神は
  牛頭天王・娑竭羅龍王(さがらりゅうおう)(あるいは八王子)・頗梨采女(ばりうねめ)
龍王は武搭の神が南海に行った時の王で,頗梨采女は,龍王の三女.8人の王子を生んだ.すなわち蘇民将来伝説のパクリである.神仏混淆の時代に,神社は「祇園社」「祇園感神院」と呼ばれ,興福寺,あるいは延暦寺の末寺のときもあったが,1070年には祇園社は鴨川西岸の広大な土地を境内として認められた.経営は寺僧によって行われていた.総本社として繁栄した (現在関連神社は2,300社).
 1868年の神仏分離令は祇園感神院を壊滅の瀬戸際に追い詰めた.寺僧は追放され,寺物は処理され,現在広大な面積を誇る円山公園として知られている神社の土地は接収された.混乱を極めたに違いないが、何とか神社名を「八坂神社」と改め,存続されることが許された.現在の祭神は
      スサノオノミコト・櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)・八柱神子神(ヤハアイラノミコガミ)
これも蘇民将来伝説のパクリであるが,人々には納得しやすかったであろう.天神 (あまつかみ,与党)の天照大神(伊勢神宮)に対して,地祇(ちぎ,くにつかみ,野党)のスサノオノミコトは,人気の神である.渡来の神,出雲伝説での神,負けた者に対する判官贔屓もあり,最も人気のある神ではなかろうか.スサノオを蘇民将来の伝説を背景として,疫病の神として祭る戦略は,祇園祭へと広がり大成功を得る.京都という名所,アクセスの良さ,白朮(オケラ),祇園祭,疫神社夏越(なごし)の祭などいくつもの大きなイベントを持つ八坂神社も人気の神社の一つである.

参考にした書は,(1)八坂神社編,「八坂神社」 学生社 (1997); (2)川村湊,「牛頭天王と蘇民将来伝説」作品社 (2008) 読売文学賞受賞;
(3) 吉元昭治,「日本神話伝説 伝承地紀行」勉誠出版 (2005)等

★八坂神社と祇園を歩く

京都駅から行くと,四条通りの突き当りが八坂神社西楼門(重文)である.



下記の八坂神社境内配置図 (八坂神社編,「八坂神社」 学生社(1997) では左が四条通りで左端が西楼門である.


西楼門をくぐるとすぐ目に入るのは疫神社で,蘇民将来を祀ってある.



その隣が「白鬚神社・太田神社」である.白鬚神社のシラはSillaすなわち新羅(シラぎ)に関係することを表す.
新羅Sillaは,音が白(シロ)で同じである.高句麗の使いが八坂造となったと述べているので高句麗人が祖と考えられそうだが,
新羅の牛頭山からの神を祀るということはどう解釈したらいいのであろうか.我々は三国時代を,対立する国および国民を思うが,
必ずしもそうでないことを示しているのであろうか.
 太田社は何だろう.上賀茂神社の大田社の流れとすると17世紀ごろの新しい神様のようだが.猿田彦を祭神として,芸能の神様.
もともと白鬚神社しか無かったところに割り込んで一つの額に二つの神様を置いたようにも思える.



その隣が大国主命の社.子の事代主(ことしろぬし)も一緒に祀られ,向かいの蛯子神社の祭神も事代主である.
したがって西楼門から入ってここまで全くの出雲系ファミリーの社でスサノオ系が集合してスサノオノミコトを祀る本殿へとつながる.
でも社を見たからと言って,社は何を語るでもなく,見る人が言い伝えや古文書をベースに推測するだけの事である.


★蘇民将来のお守り

ほかの神社の蘇民将来は,笠のような屋根がついているが,八坂神社のそれには付いていないのが特徴である.高さ7cmの正八角柱でブル下げられるように綱がついているなっている.各面には1文字ずつ書かれ「蘇民将来之子孫也」と8文字が読める.底には2枚の和紙がついていて蘇民将来子孫也と7文字が各紙に印刷されている.



蘇民将来の意味がどれほど人々に伝えられているかは,不明だが,例えば次のお菓子(鶴屋吉信.笹の.中身は食べてしまったので容器のみが映っていおる)などのネーミングに使われているので,京都の人たちには何かイメージがあるのかもしれない.


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