★備後国風土記の蘇民将来
「蘇民将来」の記述が見られる一番古い古文書は「備後国風土記」である.
「釈日本紀(しゃくにほんぎ)」巻7に逸文(現在は伝わらない文)として記されている.
釈日本紀は13世紀に卜部兼方によりまとめられた書である.
備後の国の風土記にいはく、疫隈(えのくま)の国つ社。昔、北の海にいましし武塔(むたふ)の神、南の海の神の女子をよばひに出でまししに、日暮れぬ。その所に蘇民将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚貧窮(いとまづ)しく、弟の将来は富饒みて、屋倉一百ありき。ここに、武塔の神、宿処を借りたまふに、惜しみて貸さず、兄の蘇民将来惜し奉りき。すなはち、粟柄をもちて座(みまし)となし、粟飯等をもちて饗(あ)へ奉りき。ここに畢(を)へて出でまる後に、年を経て八柱の子を率て還り来て詔りたまひしく、「我、奉りし報答(むくい)せむ。汝(いまし)が子孫(うみのこ)その家にありや」と問ひ給ひき。蘇民将来答へて申ししく、[己が女子と斯の婦と侍り」と申しき。即ち詔たまひしく、「茅の輪をもちて、腰の上に着けしめよ」とのりたまひき。詔の隨(まにま)に着けしむるに、即夜(そのよ)に蘇民と女子一人を置きて、皆悉にころしほろぼしてき。即ち詔りたまひしく、「吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり。後の世に疾気(えやみ)あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまひき。(Wikipedia)
コメント(下線部):
★疫隈の国社→広峰神社→八坂神社と移動した経緯については,川村湊,「牛頭天王を蘇民将来伝説」,作品社 (2008)[2008読売文学賞受賞]
に詳しい.一読をお勧めする.
★北の梅,南の海: それぞれ日本,韓国を指すとされている.
★武塔(むたふ)の神, 速須佐雄(はやすさのを)の神: 元来は武搭の神であったろうが,13世紀にはスサノオノミコトと同じとされていたようだ.まだ,牛頭天皇が記されていないので,牛頭天王(ごずてんのう)はさらに後世出現したものと考えられる.
★蘇民将来: 兄も,弟も同名で出現している.蘇民将来は本来主役でなく脇役だったのかもしれない.疫病を払うスサノオノミコトの役割が武搭の神を利用して権威づけし,強調されているように思われる.後世は,例えば下記のように兄弟の名前が蘇民,将来と分離して伝えられている.蘇民将来,コタン将来と命名されている場合も多い.
★茅の輪(ちのわ): カヤには棘があり,疫病に効き目があるとされてきたようである.かって八坂神社の神域であった現円山公園の池の由来に,カヤがたくさん茂っていたとの記述がある.これは,カヤが水辺にポピュラーであってそれを結びつけたと考えられる. そして現代ではたくさんの神社で「茅の輪くぐり」の行事が行われている.ある宮司さんにお聞きしたことがあるが,「大祓」に従って茅の輪を設けているとのことであった.大祓が何なのかはわからいが,現代神社の教科書のようなものかと想像した.茅の輪くぐりは蘇民将来のローカル行事から全国行事となったようで,茅の輪の存在から蘇民将来を探すことは有効でないときが多い.
★ 笹野観音橋復元由来より
昔北海の武塔神が南海の神の女に逢いに旅立たれた折その地に蘇民、将来という兄弟がいました。
兄の蘇民は貧しく、弟の将来は富んでいました。ある日の夕方、武塔神が宿を乞うと弟は拒絶しましたが、
兄は歓迎し、粟稈を席とし饗応した。その後8年を経て武塔神は8人の御子を連れて一夜の諠に報いんと
兄蘇民の一家に茅の輪を作って帯締めたところその年に疫病が大いに流行し蘇民一家を残して他は滅亡した。
後世疫病のあるときは蘇民将来の子孫といい茅の輪をもって腰上に帯すれば難を免れるなりと告げ給う云々と
蘇民将来の伝説は「公事根源」にも記されている。疫病除け、邪鬼を退散せしむる護符武塔神は別に牛頭天王とも云う。
★ 最古の蘇民将来
長岡京(784-794)跡の側溝から見つかった(2001.4.19)
27 mm(縦)x 13 mm(横) x2 mm(厚)
中央部に穴があけられており,紐を通して腰や首にぶら下げて使ったらしい.したがって,蘇民将来信仰はそれより以前から民間信仰として古くからおこなわれていたらしい.
八坂神社 護符
★ スサノオノミコト,牛頭天王も なぜ蘇民将来(武搭の神)を超えることはできなかったのか.
古代出雲王国の覇者 素戔嗚尊(すさのおのみこと)にしろ,インド神と言われる恐ろしい牛の顔の牛頭天王にしろ
,結局は疫病をコントロールできるという権能で生きているが,祭となるとわかる.例えば祇園祭では,
牛頭天王・娑竭羅龍王(さがらりゅうおう)(あるいは八王子)・頗梨采女(ばりうねめ)が神輿渡御を行っている.
龍王は武搭の神が南海に行った時の南海の王で,頗梨采女は,龍王の三女で武搭の神の妃.そこで8人の王子を得た.
すなわち蘇民将来伝説のパクリである.明治の神仏分離令により八坂神社となったときからの祭神は,
スサノオノミコト・櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)・八柱神子神(ヤハアイラノミコガミ)であるがこれも蘇民将来伝説のコピーである.
茅の輪くぐりに至っては,伝染病の出やすかった夏に向けて「夏越しの祓い」として全国版となって行われている.
なぜ,政権に都合の良いように,由来を変えることはしなかったのか.それはあまりに人口に膾炙していたため改変できなかったのではなかろうか.
古くより人々に信ぜられていたため納得性・整合性を失わないようにするため,武搭の神をスサノオノミコトにすり替え,
疫病退散の神として登場させた程度の変更に頼らざるを得なかったのではなかろうか.
備後国風土記によれば,蘇民将来という同名の兄弟がいたことが記されている.実は蘇民将来そのものが誰かは,大した問題ではないのだ.
ある集団のことを指すと考えられる.笹野観音橋復元由来では蘇民と将来という兄弟,あるいは別書では蘇民将来,コタン将来の兄弟と記されているが
ストーリー性を構成するために加えられたようだ.武搭の神が北から南へ(南は朝鮮と考えられているそうだ),南海で結婚し,
8人の王子を連れて(これは軍勢のことかもしれな)北へ戻っていく.その時疫病をまき散らして,
一晩の恩義を与えてくれた蘇民将来の集団を抹殺する.その原因が疫病であったかどうかすらも疑われる.
朝鮮から渡来した軍団が,原住民を虐殺し尽す恐ろしい事実に基づいて粉飾された伝説の可能性もある.
蘇民将来は卑弥呼の活躍する時代から弥生時代へと遡って行く.
祭具である銅剣・銅矛・銅鐸を多量に見つかりにくい急斜面に埋めなくてはならなかった理由は何なのか.
後代の粉飾願望にもかかわらず,蘇民将来の伝説は変更できないほど流布していたと考えられる.
神話を記した「古事記」には,古代出雲王国とヤマト朝廷とのバランスについて巧みに記されていて
,蘇民将来については全く記されていない.これはすべての人が蘇民将来の神話は当然のこととしているためで,
祇園祭,津島祭等の諸祭の祭神は,その神話に基づきストーリーが作られていることから理解できる.
結局,記紀より以前の状態を知るには,蘇民将来の神話を説明することが要求され,またそれがキーとなるであろう.
古事記には書かれていたが,その信憑性が疑われていた巨大な3本の幹が出雲神社から出土した.
仏経山の並びの高地には謎の古墳・多量の青銅祭具が出土した.
このような最近の考古学からの発見により文書の紛失した時代を明らかにすることを期待したい. (2013.10)