蘇民将来- 古代史 -狩猟時代

★ 「蘇民将来」は,木を六角形,あるいは八角形に刻んだお守りで,疫病の神として恐れられた武塔の神が祭られている.北は,岩手の黒石寺から南は京都の八坂神社まで見ることができる.1983年の家族旅行の途中,上田信濃国分寺で蘇民将来のポスターを見つけ,蒙古のパオを連想させるその異国的な形に興味を引かれた.10年後の199317日,信濃国分寺「八日堂縁日」で遂に蘇民将来のお守りを手に入れた(右写真参照).縁日への道は雪が道路沿いに積まれ,底冷えのする夜であった.「蘇民将来子孫之也大福長者」と六角柱の各面には2文字ずつ記されている.一体,「蘇」の「民」の「将来」とは何なのか?それを契機として,神社仏閣を訪れ蘇民将来発見が始まった.よく見ると,玄関の上に蘇民将来の木の札がかけられたり,お菓子を包んだ竹の籠にも蘇民将来と書かれているものが見つかり,その意味さえ分からなくなった現代でさえまだ広く使われていることが分かった.2千年以上の昔から武塔の神が怒るとたくさんの人々が死んで行く疫病の恐ろしさは,2020年コロナビールス禍に有効な手段を打てない世界の苦しみと変わることはない.

    蘇民将来についての記述は古事記,日本書紀にはないが,風土記「備後の国」に武塔の神が蘇民将来の家に泊まる話が記されている.茅の輪をつけた蘇民の娘一人が生き残り,「吾ハヤスサノオの神なり」と恐ろしい疫病の神ぶりを発揮している.考古学的には長岡京(784-794)の溝から出土した首からかけたであろうと思われる穴の開いた札があるだけである.しかし,民間には広く信じられたようで,疫病の神である武塔の神が簒奪されスサノオノミコト,さらには神仏混合により牛頭天王(ごずてんのう)として平安時代に伝えられ,江戸時代にも栄え,現代まで伝えられている.中心は京都八坂神社あるいは愛知津島神社であるようだ.百済,高句麗が滅び大量の難民が日本に渡来した7,8世紀に発展したようで,渡来民が東へ拡大していく軌跡が疫病を司る蘇民将来を祭った神社となったと考えられる.しかし,全く歴史に関して門外漢なので,それ以上進めることができなく,コレクターとして蘇民将来に関係するものを集めながら,小さな発見や疑問を持ちながら過ごしている.

★ PC-VAN (1994): 1993年より1年間余り,蘇民将来に呼ばれるようにしていくつもの神社仏閣を訪れる機会を得た.当時は現在のような自由な インターネットの発達はなく,商業ネットワークの1つであるPC-VANのREKISI (歴史)フォーラムに見聞記を投稿した.1994年3月 それらのフォーラム記事を個人的に小冊子としてまとめた.20年経って読んでみると認識の誤りや,荒唐無稽と思われる内容もある. ただし,京都八坂神社,愛知津島神社を基本として渡来人が移動し,居ついた場所の軌跡が「蘇民将来」の軌跡だという現在の基本的考えは保持されている. また,それ以降は神社仏閣の写真を撮ることや関係物のコレクターとして専念し,文書として残したものはないので, 出発点を明らかにしておくという観点から収納した.興味のある方はご覧いただきたい.

古代史さらに,その背景となる大和朝廷建国の古代史に目を向けることとなった.それは渡来民族の力を利用して大和朝廷は権力を得,渡来民族は中央権力を利用しながら勢力を各地に特に東に広げたからと考えられ,蘇民将来による神社はその軌跡を見せている.そういう観点で各地を旅行し古代史アルバム」 の項も設けた

狩猟時代旧石器時代から縄文時代の人々は狩猟民族である.石器よりも鋭い刃物となる黒曜石は道具の革新技術の一つであり,日本では,蓼科周辺,あるいは北海道に良質の黒曜石を産する.日本人としての先民族(?)は少なくとも2万数千年前には存在していたといわれる.人類が経験した最新の氷河期は1万3000年前に終わった.氷河時代の過酷な寒冷な時代を狩猟民族として生き延びた人々は,その狩猟の道具として石器あるいは黒曜石を用いたことは遺跡からの出土品に示されている.一方,縄文時代中期として知られている今より5000年前からの1000年間は,蓼科より南の八ヶ岳西方に広がる原野は大変栄えた.遺跡からは狩猟民として必須の道具として石器のほか,黒曜石が大量に出土する.旧石器時代と縄文中期の間の5000年間を八ヶ岳周辺の人々はどのように生き延びたのか,それもまた興味あるテーマである.先人たちの努力の結果を知り,遺跡を訪れたいと念じ,日本狩猟時代の痕跡も探るため各地を訪れ始めた.
   (参考)氷河時代の日本列島の様子については 郷原保 https://www.kubota.co.jp/siryou/pr/urban/pdf/11/pdf/11_2_1.pdf  が分かりやすい.

           黒曜石破片